08 「マーマレードの朝」(角川文庫の同名の文庫本より)
ま、半分は、っていうか、半分以上、ウチのHP、自分の過去を総まくりするのが趣旨みたいなところがあって、で、その中の片岡義男コンテンツ。
角川文庫の文庫本「マーマレードの朝」は、確か、一番最初に読んだ片岡作品だったはずだ。その頃は新品で近所の本屋でも十何冊か買えたはずだ。その中でこれにしたのは……。う〜ん、覚えていない。「マーマレード」という字面をみて、なんかそんな感じ(ってどんな感じ?)なんだろうな、ぐらいのことを考えたのは、なんとなく覚えている。オレンジマーマレード、正直、好物だし。
というわけで、本棚の奥のほうにしまわれていたのを引っ張り出して読んでみた。妙に黄ばんでいます。高校のときからだから、20年以上前だもんなぁ・・・。
表題作「マーマレードの朝」である。最後の一行、「甘い気持で惚れると、不幸になるわよ」と言うセリフを読み終わり、最初に頭に浮かんだのは、っていうか、読中より、考えていたのは、これは2004年の現在の話であるとして、または現在に置き換えたとして、小説として成立しうるか?、ということだった。
手元の文庫本では初出は分からないが、この文庫本自体は 初版が昭和54年8月30日、僕が持っている本自体は七刷の昭和55年6月30日とある。'79年、'80年ごろって事だよね。つまり'70年代中ごろ過ぎの空気感。
片岡義男氏って、短編の主人公の名前、知ってか知らずか、平気で芸能人の名前をつけちゃったりすることが多い。この短編の主人公は、紺野美沙子さん。まぁ、それはそれとして、現在の話としてアップデイトするなら、この美沙子さん、別に高級クラブのホステスである必要はなくなる。美佐子さん像として、職業意識の高い、って言うのも違うな、どういうんだろ? 記述にあるほどだらしない女性像は想像しにくい。というのも、敵地、途中まで付き添いがいるものの、前夫の実家へひとりで後始末に乗り込む、ということをできるというのは、そうできることでもない。
ひとりでいる自分を肯定する、前夫の実家までの道のりを松崎と言う男に同行を頼むが、だからといって、前夫や松崎に精神的に依存する感じではないところは、むしろ、今の普通の働く女性を思わせる。というわけで、現代版「マーマレードの朝」では、美沙子さん、それなりに責任を負わされる立場のキャリアウーマン、ただし、男からは勿論、仕事からも、精神的に距離をとる、それらに染まりきらない女性、と言うことに決定。
一方の松崎。でしゃばったところもなく、実にこれまた今風の青年である。多分、イケメンなんだろう。物静かだが、前夫の実家に不毛と分かっている話し合い、決着をつけに行く、いわば話の中では闘う女の美沙子さんと、それを文句も言わずに受け止める、といっちゃぁカッコはいいが、まぁ、都合のいい男、っていうか、居て邪魔にならない男、松崎。
なんか、こういう二人の話をこのまま再現したところで、今ではありきたりでつまらなさそうだ。
さて、「片岡義男」をIEのアドレスバーに打ち込んで検索した時に、興味深い記述を発見したので紹介したい。
| 私もひとりでありたい。 他人を否定するという意味ではなく、他人と過ごす時間が嫌いだという意味でもない。 他人に依存せず、安易に頼ったり見返りを求めたりしない「ひとり」だ。 「やむをえずひとり」ではなく「あえてひとり」を楽しめるという言い方でもいい。 |
ボクの昔のガールフレンドもそんなことを言って多様な覚えがある。これ自体、何の問題も無い。正論だと思う。でも、ずぶずぶに人と関わって、精神の深い部分で、寄りかかったり寄りかかられたりして、そりゃぁ、いやなこともたくさんあるし、その逆もあるけれど、やっておかなきゃ見えないものもあるだろう。「ひとり」は頑なさを招きやすく、それはそれで人生の何パーセントか損じゃないかなとも思う。
でも、ま、そんなことは個人の美意識の問題であって、それ自体深く言及すべきことではない。
これは'70年代後半の掌編であるから意味があるのではないかとも思う。女性は、あるいは男性はこうあるべきだ、という暗黙の規範のようなものが厳然と存在した時代のもの。依存とはすなわち、目の前の個人に対してのもののみを指すのではない。そういった、規範に無批判に従うことは、規範に依存することである。そこに緊張感が無いことが問題なのだ。
今のところ、ネットを見てまわっても、こんな記述をしているのを見たことは無いが、ボクはひそかに「片岡義男は透徹したアナーキスト」説を心に抱いている。アナーキストといっても、パンクロッカーのような尖って暴力的なものではない、原初のバクーニン、あるいはロマン的無政府主義者大杉栄のようなおおらかな感じの。もっとも、物書きというか、表現者はそういう人が多く、むしろ、石原シンタロウのような極右に転ぶひとは一発屋で多くは読むところの無いようなのが多いという認識を持っている。時代の雰囲気の先端がそうであったのだろうが、国家、社会よりも個人の心持こそ大事。このことは、「僕はプレスリーが大好き」から、最近の評論、随筆まで底辺に脈々とつながるものだと思う。
さて、話を戻す。
美沙子さんは(美佐子さんに限らず片岡ワールドの女性はそういう人が多いが)ある意味至極現代的で、それにつられて、松崎も充分に現代的。しかし、今、これをリメイクしたところで、やはりボク的にはつまらないと思う。
原因は松崎にある。この掌編は、松崎の視点で話が展開するが、主人公は言うまでもなく美沙子さんである。それは美佐子さんが能動的に行動する女性だから。上の論法で言うなら、美佐子さんはよいとして、松崎の女性をそのまま受け止める、というのは'70年代当時は新鮮であったけれど、現代ではありきたりで、かつ、能動的な女性を見るような爽快感が無い、緊張感が無いものに感じられてしまうことだ。
そういえば、片岡作品の男性は、案外、おっという感じで、目を見張るような男性は少ない。女性を描くほどの愛が無いのも一因かもしれない。まれにこれはという男性を見かけるが、彼等はその殆どがトリックスターである。ぶっちゃけ、いたずら好き。きっと片岡義男氏自身がいたずら好きなんだろう。
そして、そんな片岡義男氏は、これをリメイクせねばならない事態に追い込まれた時にでも、もう少し松崎に別のキャラクターを与えるのではないか、と思う。現状追認は、深いところで片岡氏らしくない。
かといって、魅力的な男を描くって難しいんだよなぁ…。
一度アップしてから、書くのをわすれたので。
マーマレードは美沙子さんにとって、っていうか、この話において、再生のシンボル(今で言うならアイコン?)にようなものだ。アルコール漬けの年末年始から、三が日を過ぎていよいよ日常に戻っていく、でも、これまでとは少し違う、そんな象徴。それを正月という時期に重ね合わせるとは、片岡氏も、案外と日本的。
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Comments
こんにちは。片岡義男は高校生のとき読んでました。私の書架にも、角川文庫で何冊も彼の作品があります。
氏には「ボビーに首ったけ」という少年小説がありますが、バイク乗りだった私には、物語にでてくるバイクに乗っている描写がやけに身近に感じたのを覚えています。また、物語のラストも、バイクに乗ることへの一種の覚悟というようなものとなっていました。
80年代のある種の雰囲気をたたえた小説群は、いまとても懐かしいですね。いまの時代は、あのようなスカスカの文面のなかにあるメッセージは理解されにくいかもしれません。
Posted by: Rough Tone | January 02, 2005 at 02:12 AM
はじめまして。
トラックバックを発見したので来てみました。
ひっそりとしたblogにこのようなコメントをしてくださって嬉しいです。
また思い出した時にでも覗きにきてくださいね。
Posted by: tsuu | December 25, 2004 at 05:44 PM