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2011年6月 5日 (日)

note「ニーチェ」2 ニーチェへのアクセス

 子供のときに見たテレビCM。今は脳梗塞で闘病中の野坂昭如氏が些か調子っぱずれな歌で「ソ、ソ、、ソクラテスか、プラトンか。ニ、ニ、ニーチェか、サルトルか。皆悩んで大きくなった」と言うのがあった。多分洋酒のCMだったけれど、なぜか小学校のまだ低学年だった僕にして、酷く印象が強く、未だに覚えていたりする。子供ならではの「○○ってなぁに?」攻撃スキルを親に向かって発動し、「じゃぁ、てつがくってなぁに?」とたずねてみたとは思うのだが、おそらくは満足の行く答えは得られなかったのだと思う。
 今思うと、ソクラテスやプラトンは良いとして、どうして、ニーチェやサルトルなのか? デカルトやかんと、ヘーゲル、フッサールやバタイユではいけなかったのか? マルクスは、いろいろ問題多そうだろうけど。ドゥルーズとかその辺りは、多分当時はまだ売り出し中のはずだろうし。まぁ、いいや、そんなことは。

 中学、高校の社会科の倫理社会分野では、こういった名前を教科書で目にするが、「ここは試験に出ません。」「大事なことではないので、一度しか言いません」な扱い。思想内容について軽くでも言及することも無く、人名と一般的に乱暴に名づけられて○○主義と言う言葉や、ニーチェで言えば「超人」といったようなキーワードを線で結びなさい、程度のもので、教えるほうもどう扱えばいいのか考えあぐねているのがバレバレで、先生にしたところで、プラトンが、デカルトが、ニーチェが、サルトルが、どのような思想を持っていたかなど理解して授業に臨んでいたなどとは思えない。
 ニーチェを読んでいて思うのだが、この手の思想を理解するには、ある状況下か、それを経験していないとムリ、のように思っている。すんなりと学校の先生になれてしまった人のライフパターンを想像するに、そういうものを経験しているのかどうかとなると、一般人より寧ろ可能性としては少ないんじゃないかとさえ思う。

 哲学科の学生であるとか、時々そういうことがある、僕が若いときの「ニューアカ・ブーム」のように、少々難解な本のひとつも読んでおけば女の子にもてるんじゃないか、などという可愛らしい勘違いでもなければ、この手の本を読むということは、心に大きな困難を感じているときで、それをどう乗り越えれば良いのか? それも明確な問題意識というより、とりあえず、心持としてどのようにあれば多少たりとも救われるのか、藁をも掴むような切羽詰った状況にあることも少なくないように思う。

 若い時、僕などは、視点が少々他とは違っている言葉、突き抜けていくような強さを持った言葉に飢えていたように思うのだ。その点、ニーチェなど申し分ない。アフォリズムと言う形式も、その部分だけを読み、コレはいったいどういうことなのかと想像力を膨らませるのにはもってこいだ。

 ニーチェに関しては、とりあえず何から救われたいか? それは僕の場合、孤独だったように思う。
 この、一口に「孤独」などといっても、コレがなかなか厄介で、友人がいないのか、と言うと決してそういうことは無く、肉親も健在だったりする。敢えて言うなら、喪男であるということ。しかし、コレを挙げて、自分は孤独なのだ等と言うことはいかにもトホホで、とても口に出せることではないし、限りなく正解に近いようで、何か決定的にずれているような気がしてしまうのである。

 逆に、フリードリッヒ・ニーチェは言っちゃぁ悪いがブサメンで、しかも難儀な性格をしていて、これでももし、ルー・サロメあたりの愛を得る事ができていたのであれば、彼の思想は後世に残される事もなかったのかもしれないが、そうではなかったから、彼の思想世界が形成された面と言うのは少なからずあるようにも思う。
 自分の生物的DNAが後世に残せないかもしれないと言う危機。残せるような目処が立ってしまえば、多少の事は我慢できる。隷属的にもなれる。そもそもそれを隷属的などと考える事すらない。それがかなわぬと悟ったときにどうすれば良いのか? ニーチェが感じ乗り越えようとした絶望はそんなところじゃないかと思うし、それにある種の読者は感応するのだと思う。
 そして、それは感じる孤独のまだ端緒にしか過ぎぬ。ただ、自分の絶望の解決法はおろか全体像すら見えずに立ちすくむ。

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 原書とまでは行かなくとも、岩波文庫あたりは当然読むとして、何年かに一冊は必ず出版されるし、最近ではドラッカーブームに引っ張られた形でのニーチェ本ブームで、本屋に行けばその手の本は結構出ている。
 「ニーチェ入門 悦ばしき思想」(河出書房出版)が昨年出版されている。9人の論者による9講と言う形をとる。

 最初の西研氏による文章は、確かにニーチェの言わんとする全体像をわかりやすく解説してくれている。西研氏とニーチェということについては、先の震災と超人思想ということでこういうのがある。

ハテナ?のメール箱の回答。:100分 de 名著 第1回「ツァラトゥストラ」編 西研さん回答!

 この中にもある。西研氏は、ニーチェが過剰なほどにヒロイズムに傾いている事が気に入らないらしい。「欠けているところ」とまで言っている。
 きっとこの人はニーチェの研究者でありながら、ニーチェの感じた絶望を想像しきれていないところがあるのかもしれないと思った。寄り添う事ができる人がいたのであれば、思想家ニーチェは生まれなかっただろうし、読者にもそういう状況は十分起き得る。
 だれかと一緒に。そのとき一緒に誰かがいてくれたのならば、その人には感謝感激なのだけれど、誰もいなかったなら、誰も傍に感じる事ができなかったなら、そこで腐っているしかないのか? 乗り越えないのか? 何もしないのか? 誰かが現れてくれるまで寝て待つか? そうじゃないだろうと。寧ろ、たった一人でも立ち向かっていくためにニーチェの思想がある。傍に誰かいるのであれば、ニーチェのものでなくてもよいのだ。

 おそらくはそのとき必要なのは、それこそ、ニーチェではなく、それこそドラッカー流のマネージメント学とかその類のものだろう。

 勿論、陥穽は一杯予想される。しかし、過剰ともとってしまいがちになるヒロイズムがニーチェの真骨頂のひとつである事は間違いないと思う。コレを否定してしまっては始まらない。

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コメント

トラックバックありがとうございます。
 寄り添う人間が、友達がいるかいないかでそんなに人間は変わるのだろうかと思います。
 ルサンチマンに陥っている人間に価値の転換による悦び、ちょっとでもよい、悦び。私には発想できない。ニーチェはできた。
 そういうことができたニーチェ、私は素直にすごいと思います。

投稿: 信濃大門 | 2011年6月 8日 (水) 23時07分

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